「まっさらなところから構想していきます。自分の生活の中に感じられるものを抽出して、どういう色味のイメージか、それは直線なのか曲線なのかを探っていく」醸造家・北原亮庫の酒造り。それは風景と向き合い、白い紙に線や色を描き出すように始まる。酸味や苦味は直線的、旨みは丸く曲線的――。そうした味覚に直結する感覚だけでなく、風に揺れる緑の深さや、雪に光が反射して輝く情景を、どう酒に落とし込むかを思い描いていく。
1750年創業、山梨県の北杜市白州町にある酒蔵の家に生まれた。幼い頃からボールを蹴り続け、小中学校ではサッカーに没頭。物心つく頃にはプロの選手になるという目標を持ち、そのために自分なりに練習を続けた。やがてサッカーの名門・韮崎高校に進学。県内でトップクラスの実力をもつ同級生たちとの力の差を突きつけられたが、諦めなかった。全てをサッカーに捧げ、全国大会ベスト16を経験した。しかし、高校卒業時に厳しい現実が待っていた。
「サッカー部顧問の先生からいくつかの大学を紹介されましたが、トップリーグに所属するレベルではありませんでした。この先はないのかなと判断してしまった。燃え尽きましたね」
プロへの道が砕けたとき、次なる目標はすぐに見つけられなかった。酒蔵という環境で育ったためか麹の味わいや発酵について親近感があり、父の母校でもあった東京農業大学醸造学科へ進んだ。 大学に通っていた20歳のころ両親から一本の電話があり「家業の酒造りを継承してもらえないか」と打診があった。迷いながらも「やるからには絶対に上を目指す。日本酒業界の異端児になってやる」と決意。サッカーで味わった挫折を2度と繰り返したくないという想いもそこにはあった。岡山県の酒蔵で3年間修業し、25歳で実家「七賢」の蔵人となる。この時期を北原は暗黒時代と呼ぶ。蔵人の目に光はなく、売上も下降の一途だった。
「このままではいけないと分かっていても、何をどう変えればいいのか手探りでした」
最初の5年間は、周りに認めてもらいたいと先輩たちに必死に食らいついた。ときには理不尽な扱いを受けることもあったが、それに耐え自分の道を必死に模索した。30歳で醸造責任者となり、ようやくコンテストで評価され、成果が現れるようになった。
「一本一本の醪(もろみ)といかに向き合うか。自問自答を繰り返しました。相手は声を発さない微生物。唯一得られる情報は温度、見た目、香り。その断片をもとにどこまで想像を広げ、先の展開を読めるかですべてが変わる」
道具の置き方から扱いまで細部に神経を尖らせた。ときに北原のやり方は反発も招いたが、やがて一人また一人と認める蔵人が増えた。さらに「組織の雰囲気が味に影響する」と残業をなくし、働きやすい環境づくりにも注力。売上は上向き、生産量も目標に届くようになった。順風満帆に見えたが、北原の心にふと疑問が生じる。
「計画通りの世界だけれど、40歳を前にして、大事なものを失ってはいないか――」
疑問を抱えた日々の中、転機は予期せぬ形で訪れた。北海道南西部・後志地方の米どころ、蘭越町。酒米の試験栽培が思わしくなく、知人を介して北原に助言が求められた。
「農政の方から相談を受けて話を聞いているうちに、それなら自分が蘭越で酒をつくろうと。ちょうど次のステージを考えていた時期と重なりました」
2024年、蘭越町へ移住。その背景には様々な想いがあった。山梨銘醸時代、地元産米の比率を90%まで高めたが、コロナ禍で販売が不透明になり生産計画が大幅に崩れた。地元生産者との距離が生まれ、他地域の米や古米などに頼らざる得ない状況となった。
「何かが違うなと。売り上げにブレーキがかかったとしても、今一度、酒蔵としての本質に立ち返り、地域とのつながりに目を向けた酒造りが大事だと思うようになりました。お酒は米がなければつくれない。農家や田んぼの生態系や自然環境に酒蔵は目を向けているのか。経済論理の中で目をつむってきたことが苦しくなってきました」
同時に、日本酒業界の構造にも疑問を抱いていた。1973年をピークに市場は縮小傾向。ワインや焼酎の台頭や食の多様化などが理由に挙げられるが、根本的問題は日本酒業界自体にあると北原は考えていた。
「長らく日本酒業界は、お米をどれだけ磨いたかによって価値を上げようとしてきました。また、兵庫県産の山田錦が一番のブランドとなっていて、大吟醸といえば、どこの酒蔵も大体似たような味になる。そうすると“コスパ”の良い酒が売れることになる。僕は、米を磨く価値を追求する土俵に乗らない、自分の土俵をつくることにしました」
北原は2014年から「Sparkling Sake」に挑戦し、「EXPRESSION」シリーズを発表してきた。蘭越では、酒米ではなく地元産の食用米「ななつぼし」を原料にした、「Sparkling Sake」に特化した酒蔵をつくることにした。
「ワインとスパークリングワインが別カテゴリーであるように、『Sparkling Sake』も日本酒の延長線上にあるのではなく、独立した存在にしたい。飲んで終わりでなく、そこから自分の生活に変化が現れるような誰も経験したことない味をつくりたい」
決意を固め、蘭越町で醸造所を建てるための土地を探した。車でさまざまな場所を回ったが、どこも決め手に欠けた。そんなあるとき出会ったのが、3.6ヘクタールの森だった。北海道の森は開拓時代から数回、皆伐されており、木はそれほど太くない場所が多いが、その森には大木もあり多様な樹種があった。さらには小川も流れていた。
「森を見た瞬間、生命を感じました」
この強烈な出会いによって醸造所のスタイルが決まった。森で自分たちが暮らし、そこで感じ取ったものが製法や熟成に影響を及ぼす。森がインスピレーションの源泉となった。「ここに移住する直前、妻と新しい醸造所の名前について話しました。独立であれば自分の名前から文字を取るという選択肢もありましたが、あの土地に残すべき言葉は、北原じゃなくて森だろうと」
こうして「森ノ醸造所」が誕生する。
世界では様々な部分に歪みが生まれており、人々は鎧をかぶって生きているのではないか。そうした人々が森に来ることによって、背負っているものを脱ぎ捨て、人間らしさを取り戻すことができるのかもしれない。森にはそんな力があると感じた。
「森で暮らしながら酒をつくることが醸造家としてこの上なく幸せです。自然を相手にすることは、正直に生きるということ。酒造りは自分の生き様です。そして、この森に来るゲストが少しでも自然と自分の距離感を縮めてくれて、森ノ醸造所の酒がそれに寄り添えるのであれば、つくり手として最高ですね」
1750年(寛延3年)創業の酒蔵(現・山梨銘醸)の次男として生まれる。東京農業大学で醸造を学び、卒業後、アメリカ、岡山などで経験を積み、2008年に酒蔵へと戻り、老舗創業家で初めて酒造現場に入り醸造家となる。2014年に醸造責任者となり酒づくりの方法や社内の改革、Sparkling Sakeの可能性を広げる数々の挑戦を行う。2022年に北海道蘭越町で実施されていた酒米の試験栽培に関わったことをきっかけに移住。2024年にこの町に森ノ醸造所を設立。